刃物の町、関

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刃物の町、関

関市は刃物の生産が日本一です。関市は700以上の伝統を持つ刃物の町として知られています。産業としてだけではなくて、観光的にも、大変に魅力的な町です。大きなイベントが行われています。その中でも、その代表格といえるのが刃物まつりです。刀祖である元重の遺徳をしのび、刃物の町の限りない発展のために、行われているのです。

まつりの期間中は、本町通りをメイン会場として刃物の大廉売市が行われます。また、市内では古式日本刀鍛錬や刀剣研磨等外装技術の実演、居合道の据え物斬りや抜刀術の実演など、刀剣展など刃物の町ならではの催しが行われます。

 

関の刃物の歴史

閱市における刃物産業の歴史は古く、 鎌倉時代に刀匠「元重」による刀鍛冶 が始まりといわれています。 室町時代には孫六兼元、和泉の守兼定 など有名な刀匠を輩出して、安土 ・桃山 時代には織田信長から鍛治職諸役免除の朱印状を受けるなど、関は日本一の名刀の產地として栄えました。

刀工が刀を作っている。

関の刃物についての最初の記事は、応永十四年(1407)山科教言の日記です。「剃刀をあつらえた。美濃の関のもので、三百文、銘があり」と記されています。 銘の入った300文というかなり高価な剃刀をあつらえたというのです。以降、室町期の諸日記には、剃刀・小刀・鋏・爪切など関の刃物の記事が散見されます。 特に剃刀や小刀には銘が入っているものや、箱入りのものもあったそうです。非常に 珍重されたようで、いわゆる当時のブランド商品でした。

 特に小刀は日本を越えて、海外でも高く評価される商品でした。 明の茅元儀の著した『武備志』には「小にして紙を裁ち機(はた)を設ける刀あり、長門より出づ、兼常と号するは最もよし」とありました。長門(山口県)の大内氏が日明貿易で輸出した関の兼常の小刀を絶賛しています。

このように評価の高い刃物に対して、関の刀剣についてはどうでしょうか。長禄三年(1459)『大乗院寺社雑事記』に、飛驛の国司から兼宗(かねむね)の太刀が大納言に贈られたという記事があります。天文二十一年(1552)『天文日記』に、本願寺証如が六角義賢に、兼元の太刀を遣わしたという記事の二点があるのみです。時代は下り、江戸幕府八代将軍徳川吉宗は、目利きの本阿弥家に、これま で世に出た刀剣から名刀168振を選ばせたが、そのなかに関の鍛冶の刀は一つも入っていないそうです。

『宝徳系図』(室町期成立)という関鍛冶の系図の奥書に、「常に太刀や刀を作る鍛冶はわずか9人しかいない。このほかの者は、たとえ作ることがあっても希である」と記されています。関は、中世の美濃では大きな町であり、その人口の半数は鍛冶といわれましたが、刀を打つ鍛冶は数人であったようです。関の刃物鍛冶は評価が高くて、数も多いのです。とにかく、関は刀鍛冶の町ではなく、刃物鍛冶の町であったということです。その歴史は、今日「フエザ—」や「貝印」など関を発祥とする企業に受け継がれています。 (『岐阜県謎解き散歩』(新人物往来社を参考にしました)