江戸時代の美濃・飛騨

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江戸時代の3つの大きな出来事

江戸時代をとおして、美濃・飛驛は比較的平穏な時代を迎えていました。細分化され、人り組んだ支配体制の下で、それぞれに特徴ある地域文化と産業を発展させたのです。その中で、特筆すベ出来事は、18世紀なかばの薩摩藩による宝暦治水工事と郡上一揆、そして飛驛でおきた大原騒動です。

宝暦治水工事

美濃と尾張にまたがる濃尾平野の西南部は、木曽川、長良川、揖斐川の3河川とその支流が網の目のように流れています。東西で約40km、南北で約45kmにおよぶ広大な低湿地帯に、洪水から家や田畑を守るために、周囲に堤防をめぐらした輪中が多数形成されていました。また、新田開発が進んだので、これまで遊水池であった箇所が耕地化されて、 河道が狭くなったために、水の行き場がなくなったり、土砂の堆積で川底があがったりして、この地域では水害が多く発生するようになりました。1753年(宝暦3年)末に、当地の治水工事の御手伝普請が薩摩藩島津家に命じられ、薩摩藩は多大な犠牲のもとで工事を進めることになりました。とくに、油島締切、おおくれ川洗堰の工事は最大の難工事でした。現地に派遣された薩摩藩士は、すべての責任をとり自害した家老平田靱負をはじめとして,病死などを含め80人余りが死亡したのです。

この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及びました。ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残しました。これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと考えられています。薩摩藩では治水事業が終了したあとも管理のために現地に代官を派遣しましたが、後に彼らは尾張藩に組み込まれています。その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われました。

郡上一揆

また宝暦年間(1751〜64)に、郡上では大規模な一揆がおこりました。1754年に藩が年貢収人を増やすために、徴収法を定免から検見取りに改めようとしたことが発端でした。この一揆は反対する農民と藩との対立、あるいは農民同士の対立を深めていきました。1758年には、ついに幕府の介入するところとなり、郡上藩主金森頼錦は領地没収・改易となりました。また、対処の不備を問われて、老中・若年寄・大目付・勘定奉行にも処罰が下りました。また、農民側にも厳しい処分があって、獄門が4名、死罪10人のほか多数が遠島・追放となりました。

大原騒動

大原騒動とは、江戸時代に飛騨国で発生した大規模な百姓一揆です。1771年(明和8年)から1788年(天明8年)までの18年間にわたり騒動が発生しました。正確には、明和騒動、安永騒動、天明騒動の三つに分けらますが、その時の飛騨郡代の名をとって、大原騒動と総称しています。これは、代官(のちに郡代)である大原(彥四郎・亀五郎)父子の苛政・不正に対して、18年間断続して戦った飛騨の農民達の一揆です。農民側には、多くの犠牲者をだしながらも、最後には大原亀五郎が八丈島へ流罪になるなど、郡代側にも激しい処罰がくだされました。この背景には、幕府内部では老中田沼意次が失脚して、松平定信による田沼時代の不正糾弾が実行されはじめたことがあるといわれています。

一揆や騒動

こうした一揆や騒動、打ち壊しは、江戸時代をとおして全国各地でおきていますが、飛騨・美濃でも、18世紀後半になると、多発するようになりました。藩や旗本の財政は貨幣経済の進展とともに江戸時代中期からゆきづまり、幕末にはどこの藩や旗本領でも財政難で困窮していたのです。


この記事は、『岐阜県の歴史散歩』(山川出版社)を参考にしています。