岐阜提灯と和傘

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岐阜提灯

岐阜提灯の起源については、いろいろの説がある。一般的には、岐阜の提灯屋十蔵が宝暦年間(1751〜1763)に制作して、 これを尾張藩に納めたのが始まりとなっている。草花を描いた盆提灯、薄紙張り絵提灯などが作られて、改良に改良を加えて今日に至って いる。

岐阜で提灯がさかんになったのは、近くに 美濃紙や竹といった原材料が豊富であったことや、刷り込みと呼ばれる絵つけ作業の開発、 鉄道によって販路が拡大したことなどによる。 現在、岐阜提灯・大内行灯・宣伝広告用提 灯・海外向提灯・ぼんぼりなど種類も多い。

岐阜市内の川原町にある川原屋で、岐阜提灯の見学をすることができる。300年以上の歴史を誇り、国の伝統工芸品に指定されている。

岐阜和傘

江戸時代中ごろ、加納藩主永井氏が、下級武士の生活を救うために傘の生産を奨励したのがはじまりという。このように武士の内職から始まった加納の傘作りは、明治時代以降、いちじるしい発展をとげた。最も多いときは、全国の傘の生産の半分以上を作っていたが、 洋傘の普及で次第に減少した。

和傘は昔のままの手作り分業で、骨けづり、 紙染め、渋引きなど一本の傘ができあがるま でには、約13人で1か月もかかる。現在、蛇の目傘・番傘といった雨傘や、舞 踊用傘・一般日傘など種類もいろいろである。 昭和の最盛期には年間1500万本も作っていたという。和傘の業界は提灯業界と同様、熟練した技能者の確保育成や原材料の入手難など、 多くの問題をかかえている。しかし、全国一 の生産額であることに変りはない。

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